現代社会への考察

現在は経済成長を望むことはできず、以前のようなフリーターとしての生き方を取ることは困難となった。ひきこもり、親の年金受給での生活等、社会への積極的関わりを持たない生き方も問題となっている。

現在の日本社会には、個人が社会に参加する意義を示す物語が希薄になっている。かつては原始的社会での男子の通過儀礼、中世の封建社会での元服などの区切りによって、個人は社会秩序への参加を社会規範から強制された。それを受けた者は自らの社会への参加を意識し、社会全体への責任を負うことで社会における自己規定を持つことができた。社会規範の大義への同化による自己承認、社会全体への責任を負うことによる他者承認である。
現在における個人が社会に参加する意義とは、所属する社会システムの経済活動を支持しそれに携わることである。「労働の提供」「利益の追求」「余剰な消費活動」という物語である。しかし、グローバル化と生産技術の向上、生産活動を行うグローバルの社会システムの増加に伴って、社会システム内に、モノ・サービス・インフラは行き渡り、以前のような生産活動の必要量は少なくなった。作業の数は減り、人は余る。個人の社会への参加する意義を得る機会は減っているのである。
数が減っている社会参加への椅子に座る努力ももちろん必要だが、今後は社会から役割を得ることは難しいため、自らの社会へ参加する意義を各人が規定すべきだと考える。自らが物語を規定し、それを自覚したうえで物語に同化するのである。
若しくは社会システムに新たな規律をもたらすべく、社会システム全体の理念や思想と目指すべき方向性を掲げることだ。社会システムに属する各構成員の心理的ベクトルが揃いやすくなり、各心理的ベクトルの集積が社会システム全体の大きな力を生み出し、構成員同士の心理的ベクトルの相殺というシステム内のロスを防ぐことが見込まれる。
現在では、過去の歴史上の混迷時と同じように「温暖湿潤気候の恩恵を受けた日本の自然に助けを求める」という物語も出てきた。確かにそれも一つの解であると思う。これまでも恵まれた自然に日本人は救われてきたのである。
モノを売り続けないと持続可能でない社会システムはどうみても異常である。人類の自己愛を満たす為の商品の売買は、自己愛の肥大と、冗長で浮ついた妄想をはびこらせる不要な活動である。地球へのダメージ軽減の為にも、過剰な経済活動を目的とする社会システムを見直し、その活動の廃止と放棄を目指すべきである。