「神」についての考察

人類が認識可能な範囲を超える存在と定義される「神」という概念の、その本質と想像される存在の証明。人類が持つ概念の物差しで「神」を論じたとしても、それは人類が想像できる範囲での「神の概念」であり、「目隠しで象を触る」ようなものである。無神論者は人類が創造した「神の概念」を意識内で否定しているのみで、「神という概念の本質」を確実に捉え、それを否定しているわけではない。

人間の意識内の理論で神の存在を否定して見せても、その結論は確信に耐えうるものだろうか。そもそも、物理的事象を測る科学的尺度や、概念の線引きと構築による哲学的思惟、宗教という自我が迎合する物語などで「神という概念の本質」を捉えることは可能なのか。もし地球外生命が人類に訓示を垂れ「神はいない」と述べても、人類はそれを信じれるだろうか。

「神という概念の本質と想像される存在」は無かったと、何らかの手段で人類が知覚できた場合には、人類は自らの拠って立つ存在意義を失い、恐怖と絶望に包まれ、人々の自我はバランスを崩し、崇高な人間性は失われ、人格は破滅すると想像する。そして、地球上にうごめく我々の意識の点滅は宇宙に空しく響く独り言となり、恐ろしく言えばそれらも単なる化学反応と同質の意味しか持ち得なくなる。地球は宇宙にぽつねんと浮かぶ"物質"となってしまうだろう。

人類の認識を超える高次の目的の有意を前提としなければ、我々と我々が活動する世界の存在意義は定義され得ない。高次の目的からの相対価値でしか我々の生の意義を見ることはできない。

宇宙や地球、自然といった人類の認知できる限りの万物の本質的な存在と、我々の繰り返す無自覚な活動が、高次の目的の有意の反映として、高次の目的の何らかの「意図」を含むポジティブなストロークによって表出されること。そして表出した全ての存在の"動き"の結果が高次の目的からの相対的価値として評価されていることを、人類は無意識に期待しているのである。そうであることを、人類は無意識に望んでいるはずである。

このようにしか考察せざるを得ないのである。なぜなら人間の自我は、たとえフィクションであっても、自らの存在意義への問いに納得できる物語を常に要求するからである。