「関係の空気」「場の空気」 冷泉彰彦 著

海外で活動している日本人の著者の立場から、ユニバーサルでバランスのとれた彼の精神が捉える、外さない「空気の明確化」が心地よい。「空気の明確化」を、偏らない知見で的を得ながら段階を踏んだ解説によって、本来難解で見えにくい題材を我々に平易に理解できるよう読み説いてくれる。また著者の深い洞察と自説の体系を構成する能力が、読む者に腹落ちと納得をもたらしている。

しかし残念ながら、著者は本書で「空気」という一面的な事象に対して的確な解説を用いて自説を展開していたが、その自説に固執するあまりか事象の対象を拡げて語ろうした為に、事象に"自説"というフィルターをかける罠に陥ってしまった箇所があった。そのため、著者が語ろうとした事象をフィルターを引きはがしながら読み取る必要性が生じた。

もうひとつ全体的に残念に思う点があった。「空気」を語る上で、人間関係間の宙に浮かぶ暗黙の言葉が生む力学だけでなく、集団の心理的作用が作りだす「場の力学」の視点の説明が語られていないという点である。

「私的な言語表現を押し通すところに権力が発生するのである。」

権力者の「言語表現を押し通す」という行為によって「権力の発生」という力学が生じるのではなく、日本人特有の「場の力学」という集団の間に作用する無自覚な心理的力学と、権力者自身の気質が影響を及ぼす集団への心理的力学が要因となって、権力者による「言語表現を押し通す」行為が発生するのではないか。
「私は」を語らない自我の薄い日本人は「場」の雰囲気が持つ情緒性に流されやすく、「場」全体の動きに合わせて自らの行動を変えていく精神的特徴を持つと私は思っている。
日本人は集団における個としての自己を規定する立場を持たず、他者との関係性においてしか自己の存続を得ることができない。そのため、個は「場との調和」という戦略を取り、「空気」という媒体を用いて、他者との親和、集団における主導権を得ようとするのである。

本書の後半で著者が提言する、「です、ます」調を用いての「場の空気」を制限する方法は、大変興味を持って受け止めた。
「です、ます」調をコミュニケーションのツールとしてフラットで超説明的に用いることで、「場」によって言葉のスタイルを使い分ける日本語の曖昧さを排除し、「場の空気」の機能を、言葉による制限と明確化によって停止させるというものである。
著者は日本文化が尊重する、場のヒエラルキーの構造は維持したまま、「空気」とそれがもたらす弊害を軽減しようと提言しているのである。

考察7

外界を説明するには人間の存在は小さすぎたため、人間を超越し外界を創り動かしている能力を持つ目には見えない存在を(想像)創造した。人間にとって世界は生活するには厳しい自然環境であったため、外界を創った存在(神)とは、自然の摂理に沿わない生き方をする人間は罰を受けるという条件を設けるものとして捉えられた。日本は恵まれた自然であるため、厳しい神は設けられていない。

仏教の悟りによる自我の否定。キリスト教またその他宗教における帰依や神に抱かれることへの熱望。それらの活動全てにおいて、または一時的に自我から離れ、自我が抱えるとらわれやこだわった思考などから解放されることで、現実に対する心理的負担から逃れられる効果が得られる。そうであっても外界の現実は変わらないが、「現実の問題」に対する自我のこだわった思考から離れて、外界の物事の原因と結果のパターンを思考のフィルターなしに見ることができるようになる。

社会問題のお金による対処手法への疑問

社会問題の解決をお金の動かし方に求める考え方に根本的な間違いがある。お金はコミュニケーションツールであるため、人々の互いの意志疎通に分裂をもたらす。お金の動かし方に問題解決を求めれば、人々の動機はお金に向かい、互いの意志疎通は滞り、各人の同意は拡散するのである。
モノ・サービスの生産技術向上と物流インフラの拡充により、お金の機能のひとつである価値の貯蓄の必要性が減少した。インターネットが登場したことで、お金のコミュニケーションツールとしての機能の意義は低下した。目下社会構造上の機能しなくなりつつある媒体である。お金の決定的な価値の消失にはもう1つの要因があればいいのであるが、それは人々の活動をボランティアを基にした動機へシフトすることである。
問題解決をお金の動かし方に求めることで、人々の目線はお金へ向き、社会問題の本質からそれるのである。個人はお金を持つことで、他者とのコミュニケーションを取らずとも、力を持ち自ら生活を満たすことができる。それゆえ人々の心の向きはバラバラになり、社会構造上の問題に対する議論が行われ難いのである。

自己愛の肥大化が個人的、社会的問題を複雑化している。個人と社会がそれらを克服できれば、社会構造のロスは軽減できるのである。

領土の侵略への考察

領土の侵略は帰属する社会の自我の拡大と発達ゆえに必然的に生じた。人類の脳の発達と自我の成長に伴い、外界を認識する能力は拡大し、自我は外界に対するより深く広い認識による征服を欲した。
その欲求は倫理性を考慮する以前の、自我の自然発生的な「機能」であった。自然界の摂理を離れた、個人もしくは社会的自我が構築した物語の文脈に沿った思考パターンと情動を、人間の自我は選択する。その選択は非合理的で非倫理的な場合もある。
人間の行動は、生理、感情、情動、欲望、思考、偏見に基づいて選択される。人間の自我は、社会の物語に沿った思考パターンを無自覚に選択し、社会の枠組みによって容易に制限を受ける。人類の倫理性は、歴史上の数多の後悔の末に獲得したものである。
個人の自我は巨大な社会の枠組みの中では些細な色の違いでしかなく、社会の枠組みと物語の内容によって容易に影響を受けるほど弱小なものである。社会構成員の自我の成長度と意識化が不足している場合、無意識で催眠状態に近い集団心理に巻き込まれる。
ある社会において、人種の優勢による肉体的知的能力の差と、その社会が構築した物語の自我における効率性の違い、社会が定住した土地の肥沃度や利便性、優位性の違いが、その社会の発展性と文明の進化度の決定要因となった。
日本は日本の温暖湿潤気候の環境に助けられ守られてきた歴史をもっと自覚し感謝すべきである。島国で資源のない国であったことは特異性を生み出す要因である。

お金を廃した社会システム考察

前提
ほとんどの人は、肉体的満足への活動か、自己の存在意義を映し出してくれる鏡を外界に求める活動を、日々繰り返しているだけにすぎない。
お金はコミュニケーションツールであるため、人々の分離を生み出す。労働の対価であるため、パワーを生み出す。物・サービスの対価であるため、人々の欲望を生み出す。
我々は人類の欲望の奴隷としてストレスを溜めながら労働している。


仮説1 人々が自己の存在を映す鏡を求める活動をやめれば、お金という自己の外部に存在する価値はなくなる。
仮説2 人々は自らが所属し共有する社会システムを維持運営するために、自主的に働く。
仮説3 社会システムの運営にあたり、社会問題がインターネット上で系統だって議論され、その対処方法が決定される。
仮説4 社会問題の対処方法に従って、自主的に参加した人々によって組織される無数のワーキンググループがその問題の解決に当たる。かつての仕事といわれたものの代替活動である。
仮説5 基本的に競争がないため、必要以上の生産活動は行わず、過剰なエネルギー消費も行われない。
仮説6 問題解決のためのワーキングループが、不足している人員をインターネット上で募集し、各人はそれに応募する。
仮説7 社会システムのよりよい運用が各人の最終目的となり、技術研究開発、学習行動のすべてが、各人の目的遂行のモチベーションとなる。
仮説8 かつて商店と言われたところにかつて商品と言われたものが並べられ、無償でそれらを得ることができる。もしくは、個別にインターネット上で必要なものを注文する。
仮説9 生産の需要は系統だった議論から発生し、生産活動はインターネット上でその必要量を管理される。
仮説10 自己の存在を映す鏡を求める活動をやめることによって、必要以上の物的要求はなくなり、過剰な消費活動は行われなくなる。
仮説11 インターネットがコミュニケーションツールとなり、労働を公共への奉仕活動へ転換し、人々の欲望を消し去ることができれば、お金の価値をなくすことができる。
仮説12 お金を排した自ら所属する社会と以前の社会システムを維持している国との交易にのみ従来のお金が使われ、社会全体での収支の計算しか行われない。


総論
人々の意識化を推し進めることにより、自我のこだわり、性癖、アディクション、偏見、非科学的論説への盲信、依存、偶像崇拝、自己愛の肥大化、心の障壁、恐れ、恐れが生じる仕組みが解消され、自己を映す鏡を外界に求める行為はなくなると確信する。
現在の心理学的科学的根拠を重ねていけば、社会の精神構造を意識化するメッセージを社会構成員に一様に浸透させる手法を確立できるはずである。
それが実現すれば、中世から近世への意識の高揚に匹敵するほどの人類の意識変革が起き、人類文明の劇的な変化が起こると予測する。
なぜ意識化を行わないのか。人々の目覚めが起きてしまうと商売が成り立たなくなるからである。(その他権力に関する問題は再考。権力が悪いわけではない。)もっと本質的には、上記の「自我の抱える問題」を「自分である」と自我が錯覚しているため、それらを手放すことで起こる「自分が消滅してしまう恐怖」を自我は恐れ、意識化による目覚めを無意識に拒否するからである。

キリスト教について

キリスト教、少なくとも神学は、石畳で舗装された文化の上に、人間の自我が作り上げた、人間が考えうる最上の良心と権力者の人間統治に好都合な作用をもたらす目的で構築された物語(教義)である。
物語によって自我は安定し、物語を共有することで、社会という人間の共同体の結束が生じる。共通の物語によって権力者の人間への統制が容易になり、社会が安定する。
自我が創出した神の概念への畏敬の念と、条件付き愛と罰への恐れによる人間の行動の統制。教義を離れた行為による罪悪感、社会からの疎外感(つまはじき)の状態から、懺悔による許しがもたらす大多数への帰属回帰のカタルシス。自我の思考パターンは教義の枠組みの中に子羊となって住まうのである。
キリスト教から感じとれる強烈な光の放射束は、(現時点では)キリスト教徒が積年従ってきた、物語(神・教義)への畏敬の念と敬虔な祈りが集積し構築された、強い意志のあらわれであると想像する。
現在は、国際人権による保護、人間の欲望、お金という共有媒体への渇望、国家権力の法よる統治が自我の思考パターンの枠組みである。

釈迦について

釈迦の教えは、自我が創出した神話の概念を否定し、概念を思考する自我をも否定する生き方を説いたものである。
宗教での「神」は人間の自我が創出した神話上の脳内の概念であることを指摘する。神話の概念から離れ、外界の原因と結果のパターンを自我のない直感的な目で観る訓練。
生理的なシステム全体を自己ととらえるが、それを概念として定義すれば自我が生じる。人間が持つ、生理、感情、情動、欲望、思考、偏見。それらの自己システム内での発生は否定しないが、それらを自我が思考する対象とはしない(思考する自我を否定)。
思考の対象とした場合は、思考する自我が生じ、自らが新たに引き起こすイベントの原因を外界に作ってしまう。
アートマンとは自我が憧れた幻想の概念である。